善悪の彼岸はキリスト教価値観を猛烈に批判してるのに、善悪なべてよし、という点で一致してるの不思議……と。
そこには違いとして、根拠を神に置くか、それとも生そのものに置くかがある。
並べてよし の根拠を、
神に置くというのは『神に誓って』という言葉が必然的にくることになる。言い換えれば『この世界の法に従って』。
一方で、ニーチェの解き方は、自らの力を欲する生として、並べてよし、だ。
つまり世界・社会における生の充実。
彼は法律(法律というものの根拠を倫理と言い忘れた。倫理の根拠は……簡単すぎる)を破れない。なぜなら罰せられるから。
だから、彼は必然的に『世界(ポリス)の法』に従うことになる。
したがって、畢竟両者は根拠とするものの見え方が違うだけで、全てひっくるめて
群れの中での生き方
と総括できる。
で、ここで問題になるのが、タナトス。
と、消尽。これは絶対的に、群れ=ポリスに反逆するものであるが、
めっちゃ楽しい。愉しい。
タナトスと消尽。タナトス、死への欲動。消尽、全ての生、及びそのための富を使い果たすこと。
生存を放棄することの悦び。なぜこんなに愉しいのか。
あらゆる(命、倫理、名前)意味や価値を無くすことだ。意味や価値を放棄することで、まず世界が消える。空白の世界に、唯一空の自分だけが残る。そこで初めて私は自分の持たざる物(者ではない)を空白と自分に与えることが出来るのだ。
持たざる物とは?
持たざる物を与えるとはどういうことか?
それは端的に言うと、産むことだ。
雑草は存在するか。しない。
名前の知らない植物を雑草と呼ぶ。
雑草は雑草として、何でも無い物である
しかし名前を知った時、初めて私はそれを見出すことになる。
雑草であるかぎり、彼らは私にとって存在しない。
私は名前という持たざる物をその植物に与えることによって、彼を世界に産むのだ。
また、目も見えない耳も聞こえない声も出せない、富も家もないことに苦しんでいる時、
私を無条件に救う者が現れたとしよう。
彼は私の全てを修復した。
(もちろんこれは極端な例であり、単に通りすがりに農家の人にとうもろこしを頂いたでもいい)
そのとき、私は彼に何をするのか。いいや、
何をしたいのか?
それは感謝であろう。他にどうしたいこともない。ただただ感謝するばかりだ。しかし如何にして感謝する?
なにせ、私は何も持っていない。彼に与えられたもの以外なにも。与えられたものを返すのでは意味が無い。
だから私は落ちていた石を渡す。
何の変哲もないただの石だ。
なぜか。私が彼にそれを渡すことによって、その石は『何の変哲もない石』ではなく、私という差出人と彼という宛先を持った何にも変え難いギフトに変貌を遂げるからである。
確かに何も無かったところに、差出人-宛先、を私が付与したかことによって、ギフトが生まれた。
ギフトは、彼に渡ることによって、彼に新たな存在の意味を与えることになる。つまり彼は新しい存在となる。
私は新しい彼を産んだのだ、そして、それは愛のことである。
これが無制限の悦びを私に与える。