ライ麦畑で逃げますので悪しからず

猫と寝転ぶわ。昨日のこと忘れるからさ、今だけあるよ。

宗教ってビッグバンじゃんって話と知性が信仰を愛する意味。

まずは、「善い人ほど早く死ぬ」という言葉について。これが生まれた原因として、善いひとは自らを犠牲にして他者に貢献することを厭わないため、という見方があると思う。
しかし、これは「徳を積むと良いことがある」、という人々に受け入れられている事実と、全く逆のことを意味する。

「情けは人の為ならず」ってね。そして、その同じ意味で「悪いことをすると、悪いことがかえってくる」ということが、まあ普通に当たり前の事として、信じられているし、信じられない人のために、法律があり、罰がある。

ここで、考えてみよう。もしも、この2つの説が矛盾しないような、前提があるとしたら?

私は思いついた。

早世は悪いことである、という前提をひっくり返してみるのだ。

つまり「早世することは、良いことなのだ」と。

すると、「善人は徳を積むことによって、苦しみに満ちたこの世から早世し天国のようなパラダイスに招かれる」という考え方が提唱される。

なーんてことを言わなくても、「来世利益」の宗教は皆そう言う。例えば、キリスト教イスラム教、ヒンドゥー教、仏教。これは現在においても、これらの「来世利益」を約束する宗教は、今なお世界に広がっている。

逆の説を、すなわち「現世利益」の宗教の信仰者を見つけることの方が困難だ(ただし、「来世利益」の宗教の信仰者は現代においてはこの世での利益を求めているという事実は大事)。

「徳を積むと良いことがある」という考えは文明を存続させる上で要請される道徳である。

しかし、「善い人は早世する」ということが実際には起きうる事実としてあることから、この、道徳は否定されてしまう。これは、私たちが文明を存続させるためには、危機的な事態と言える。ルールの根拠が否定されるってことだからね。

法律も、元を辿れば、例えば死刑ということを考えれば、殺人という、文明破壊の最たるものを許してしまっては、文明が存続できない、ということが、根本的な理由としてある。

この理由付けをするために、今も存在する多くの宗教は生まれたと言えるし、法律も同様って訳だ。

そういうわけで、「徳を積むことで早世してパラダイスに行ける」という説は「来世利益」を約束する信仰としてほとんどその宗教が生まれた原因ですらある。

 

一方で、「来世利益」の信仰は、今世には苦しみばかりで何も期待できない、せめて来世で、という需要に対する供給として、来世という言葉が出てきているが、畢竟「現世利益」の信仰であれ、どちらにせよ、共通して言えるのは、信じれば利益があるよ〜という点では同じであるということ。

ということは、信仰すべてに当てはまることとして、信じよさすれば得られん、ということだな。

 

じゃあ、来世という言葉を持ち出す宗教と現世という言葉を持ち出す宗教との根本的な違いってなに?まあ、「来世利益」の宗教については、説明したけれど、「現世利益」の宗教ってなんだろう。

「現世利益」の宗教は、徳を積むのに早世する、という事実を教義的にどう見てるのかというと、そりゃおかしいよ、って考えてる。だって、現世利益には、長生きすることも、苦しまないことも、永遠の命への希望も含むわけだから。彼らは来世を信じない、だから、今生を楽しく素晴らしく生きてできるだけ長生きしたい、って。それが、信仰する宗教の戒律を守ることで、つまり彼らにとっての「徳を積む」ことによって、約束される利益ということね。

「現世利益」の宗教が生まれる背景には、まず、それが、非常に生が科学によって維持することができるっていう信頼があるコミュニティの状況がなきゃいけない。だから、「現世利益」ということをうたうのには、古代の生が危うい時代には、私見としては、生まれる理由がない、と思う。

 

そして「来世利益」の宗教誕生の話をしようとすると、死の苦しみがそこら中に溢れていて、医療や法が発達していない古の話になるのは必然と言える。

じゃー現代の医療や法律がどんどん進化して、死が遠くなってきた今では?実は先に答えを言ってしまってるんだけど、こういうことだ。

「来世利益」の宗教を信仰しつつ、現世での利益もちゃんと欲しいし、長生きしたい。だから、キリスト教イスラム教、ヒンドゥー教、仏教などを信じる人たちは、信仰者でありながら、その根本にある「来世」なんて二の次でもいいし、まあ信じていてもいいんやけど、ちゃーんとさっき言ったような、お金欲しい、長生きしたい、現世での欲望も大切に持っているんです。

じゃあ、その人たちのことを、私は批判したいのか?って問われたら、全然違う。これにはちゃんと訳があって、例え現代の人々が「来世」なんてのが必要ないくらいに恵まれているとしても、「来世利益」の宗教はいまだにあるべき理由があるんだ。

それは、そういえば、さっき言ったかな。コミュニティを安全に保つための法律や道徳のための根拠は、絶対に無くなったら困るからだ。

え、じゃあ「現世利益」だけを信じる宗教が残ってないのおかしくね?って話になる。

ちょいと見ると、この恵まれた現代では、こんな「来世」のための宗教は廃れている方が当たり前で、これらの宗教が存続して現存していることは驚き、という勘違いものもでてくる。しかし、現実として、宗教が廃れることはない。

なぜそういう現象があるかというと、そもそもの宗教の生まれ方を思い返してみることが必要だ。

「来世利益」を信じる宗教は圧倒的に文明が生まれると同時に、というか、宗教が生まれたから文明ができたと言えるくらいに、むかしむかしから生まれているわけで、それは、その文明の根幹をなす宗教であり、その宗教の継承によって今なお文明というコミュニティのアイデンティティは維持されている。

 

でも、その話はコミュニティにとって、ということで、個人の信仰に関しては理由にならない。日本人がその典型で、よく言われるのが、欧米諸国のキリスト教圏内の人々が日本の子どもたちをみて、驚くのが、道徳という授業だ。だって道徳という授業には、宗教が全く入ってなくて、なんでダメなの?なんでしなきゃいけないの?という子どもの質問に対する根拠が、何にもないからだ。

だけど、日本人は、ルールをちゃんと守ってる。日本人は、確実な根拠なしに、ルールを受け入れられている人種だと言える。これがあとあと問題になってくる。

 

文明というコミュニティには「来世利益」の宗教が必要だと言ったけど、個人にその理由はほとんど当てはまらない。では、個人が、それを信じることになる理由は?

2つ挙げられる。1つ、困難や苦しみに直面すること、2つ、自己の確立に困難を感じること。彼は多くの人に信じられているその宗教の現状に担保を見出している。

自己の確立に困難を感じるのは、日本人に多いだろう。日本人は、ルールの根拠に、宗教を持ってきていないから、その根本的な確立の揺らぎが起こりやすく、それが認識しやすいから。また、外国人でも状況を正確に認識し批判する能力が高い人に多いとも言える。
なぜなら、私が私であることとコギト・エルゴ・スム(我思う故に我あり)とが意図することは同義であり(それが現代哲学では全く否定されている)、それを直感的に否定する能力を持つことの証左であるからだ。

最後に結論をまとめますと、個人の信仰に関しては「来世利益」の宗教の根拠はほとんど当てはまらないと言える。しかし、コミュニティや文明の視点から見ると、「来世利益」の宗教は社会の安定や価値観の維持に役立つと言えます。「現世利益」でなく、「来世」という点が文明の誕生と大きく関わっている。まさに、文明を宇宙としたら「来世利益」の宗教はビッグバンさ。そうして、今も昔も変わらず存在し続ける宗教を、存在し続け文明を支え続けた事実を担保として、個人が支えとすることは有り得るのである。宗教を信じる理由としては、困難や苦しみに直面したときの支えや、自己の確立に困難を感じる場合に拠り所を世界の人々の信仰によって担保された宗教によって見出すためと言える。そうして、正しい認識をする能力と、批判精神を持っている人が、何らかの宗教を信じることは、繰り返し書いてきた担保を理由として、必然性があると言える。

信仰は個人の自由であり、異なる信念を持つ人々が共存することを、分かっている上で、あなたはそれを信じて、私はこれを信じて、そして私たちは友人だ、と言えることが大事です。

 

以上