女性Aさんは、夫が5年の間ずっと自分のことを壊そうとしているのに気づいていた。夫は暴力を振るったりしない。愛人がいるのでもない。街を歩く時は、夫の方からAさんに「手をつなごう」と言ってくる。でもAさんは、それが、ただの近所の人たちへのアピールだということを知っていた。Aさんは気が弱いから、夫に何をされても、言われても、怒ることができない。昔は怒ってたかもしれないが、いつからか、Aさんは気づいた。「わたしが怒っても夫は何も改善してくれない。ただただ無力感だけが募る、もう怒る気もない」 夫による嫌がらせが始まったのは5年前。最初の事件では、バッグにゴキブリが5匹入っていた。夫とAさんしか家にはいないから、犯人は夫のはず。夫の答えは「なんだそれ。そんなことするはずないだろ。お前夢遊病なんじゃないか。寝てるときに意識がないまま立ち上がって集めたんだよ」
第二の事件は、言葉。私の体は子どもができない。結婚する前に、それはいいのかと、夫に尋ねた。夫は「子どもなんかいらない、Aさえいれば俺は充分だよ」と言った。
しかし、ある日、夫が夕食の時間に大声で言った。「子どもが産めない女なんて生きてる価値ねえな!」Aは驚いて「えっ?」と言ったが、夫は聞こえてないふりをした。Aは夫に近づいて「今の私のこと言ってる?」と言った。すると夫は「なんのこと?」と言った。話はそれきり……。
3つ目の事件。Aと夫は畳の部屋に、布団を並べて寝ている。出入口の引き戸は足の方にあり、私が出入口の方にいて、夫が奥に寝ているから、夫がトイレなどで夜中に起きて部屋を出るには、私の足を跨がないといけない。ある夜、私は足に激痛が走って目が覚めた。すると、夫が部屋から戸を開けて出ていくところだった。夫に足を踏まれたのだと思った。夫がトイレから帰ってくるとAは夫に「足踏んだでしょう?痛かった。謝ってよ」と言った。夫は「え、全然気づかなかったな、Aの気の所為じゃない?」A「……。」
それは何日も連続で続いた。会話も繰り返すように同じだった。それが続いた半月後のある日、毎日続く足の痛みで目が覚めたAはついにちゃんと怒ろうと決心した。夫が、戸を開いて部屋の中に入ってきた。Aが口を開いたその瞬間、夫の顔が鬼のように恐ろしい顔に歪んで、Aを睨んだ。弱気なAは、何も言うことができなかった。
半年、その日々が続いた。Aは名案を思いついた。足と頭を逆にして寝たのである。Aはさすがに夫と言えど頭は踏んで行くまい、と思ったからだ。
夜中、私は目の鈍痛で起きた。酷い痛みだった。夫が戸を引いて出ていくのが見えた。Aは信じられなかった。夫にとって、顔だろうが足だろうが関係ないのだ。Aは諦めて、元の体勢、つまり足が踏まれる体勢に戻した。
……
そんな日々が5年間続いた。
夫は頼んでもいないのに、収入が多いからか何故なのかわからないが、宝石を買っては、Aに渡した。Aはそれを見て、どういう意味だか、はかりかねた。本当にどういうことなのか、わからなかった。だから、とりあえず、自分のものをしまう棚に飾っておいた。正直、夫は明らかにAに嫌がらせをしていくつもりらしいのに、この贈り物、と、君が悪かった。
5年の時間の流れのなかで日々Aはやつれていった。本人は気づいていないが夫による嫌がらせが始まった年の半年を過ぎたころからノイローゼになっていた。だんだん外に出ることはできなくなり、最後はトイレへ行く時以外に部屋を出ることも無くなっていた。
毎日夫は外で朝昼晩すべての食事を済ませて帰ってきた。Aは、食事をとる気も起きなくなり、どんどん痩せ細っていった。Aには、相談する相手がいない。LINEを知っている友だちはいたが、いつか見たらいつの間にか全ての連絡先が消されていた。親はもう他界している。
ある日、夫が会社を出ていった瞬間に、久しぶりに私の電話が鳴った。電話番号には見覚えがあった。これは幼なじみの、K氏である。彼とは同い年で、小さな頃から、高校で別の高校に進学するまで遊んでいた。成人してからも、年末やゴールデンウィークは時々会っていたが、結婚してからは、K氏も、私も気兼ねがしたのか、なんとなく、会わなかった。
私は真っ暗な部屋で布団に座り込みながら、携帯の鳴る音と光を感じていた。そして、電話をとった。
「A大丈夫?杞憂だったらいいのだせど、LINE消えてたからさ。連絡もないし。」
Aは思わず声を上げて大泣きした。Aは自分では分からなかったが、30分は声をあげていたと思う。
それから、事情を1からせつめいした。すると、Kは即座にこう言った。
「10時にAのマンションのホールの前にバッグに服とか旅行用の必需品入れて立ってて」
10時まで30分しかなかった。Aは素早く、訳が分からなかったけれど、でもとにかく、早くと思って、バッグに衣服やスマートフォン、財布に通帳、色々詰めて、すぐ外に出た。
Kも、急いだと見えて、10時にはまだまだ15分はあるはずなのに、マンションの前で車を停めて待っていた。Kは、車の窓を開け、「入れ」とだけ言った。
Aは何も話さなかった。というより、何も分からなかったから、話せなかった。
発進すると同時にKがこう言った。「しばらく、俺の家で暮らしな。心配しなくていい。一人暮らしだ。」
「会社は」「今日は休んだ」
……
Kの家は、一戸建てのこじんまりとしたシンプルなデザインの二階建ての住宅だった。特に何も考えずにデザインを決めたそうだ。
ずっと寝たきりだったAは歩くどころか、たっているのすら辛かった。
思わず、玄関で地面にべたりと座った。
Kは不振そうにAの目を覗き込んだ。
「不眠症か?隈がものすごいことになってるぞ。とりあえず寝ろ。布団出すから。」
KはAをおんぶして部屋に連れていってくれた。
「来客用の部屋だ。母さんとかが来た時に、ここで寝る。布団出すから寝な。今日のさっきまで、Aがいた場所は異常だった。決してAのための場所ではなかった。生きるための場所でなかった。でもここは違う。Aのためのシェルターだ。安心しろ。俺の目を見ろ。これが嘘を言っている目か。何年の付き合いだ。分かるだろ。」
Aはすぐに眠った。久しぶりに微睡みの温かく溶ける感覚を味わった、と思った瞬間には、もう眠っていた。
Aが起きたのは、ベッドの横にある時計によると夜の11時20分だった。Aは歩けないので、這いつくばって、明かりが漏れている、リビングと思われる部屋の方へ向かった。
扉を開けると、シチューを食べていたKが驚いた顔でAを見つめた。
「やっと起きたか。3日も寝っぱなしだったんだぞ。心配で、何度観に行ったかわからんよ。大丈夫かい?腹減ってる?」
「ううん。大丈夫。お水だけ、飲みたい」
「OK」
Kは冷蔵庫から天然水のペットボトルを取り出すとキャップをあけて、Aに渡してくれた。
……
Aは次第に元気を取り戻していった。言葉もちゃんと話すようになった。でもまだ笑顔は浮かばなかった。無理もないことだ、とKは思った。5年間もの間、家の中に縛り付けられて、毎日ありとあらゆる嫌がらせを受けてきた、その傷が、1ヶ月程度で治るなら、それこそ奇跡というべきものだ。
Kには、ひとつ懸念があった。KはAを、自分の家へ避難させてから1週間ほど経ってから、夫の、名前をインターネットで検索したのだ。すると、そのまま、Twitterで本人の名前が出てきた。名前が同じやつなんていくらでもいるだろ、と思って眺めたら、内容を読んで、これはAの夫だと確信した。そして、Aの夫はどうやらTwitterというSNSで言うところのインフルエンサーというものらしく、フォロワーが1万人を越していた。それまでは、ゴシップニュースなどをスマートに揶揄したのがTwitterのフォロワーの間で、支持され、フォロワーがこんなにも多いようだ。同じようなコンテンツのツイートは続けているものの、時折、「愛する」妻が突然姿を消したことを誘拐という言葉を使ってAの顔写真つきのツイートをし、10万人近いフォロワーに拡散を求めていた。そして、10万人のうち、半数以上がリツイートしているようだった。そこからさらに、枝葉が広がっている……
それを知ったからKは理由は言わないで、Aに、外に出ないように、ということと、自分が仕事で家をあけているときも配達やらなんやらが来ても、応対しなくてもいいとの旨伝えた。Aもそれとなく、理由を察知したようだった。どちらも何もそれについて話はしなかった。
Kはとにかく、Aが部屋にいてもノイローゼが悪化することのないように、幼なじみという有利な状況から、これまで聞いてきたAが使って楽しみになりそうなものを片っ端から揃えてAに渡した。初めのうちは、少し不思議な顔をしていたが、何個か渡すにつれて、Kの真意が伝わったようで、表情は明るくなっていった。
ある日、仕事帰りのKがAの部屋の戸をコンコンと、ノックすると
「どうぞ〜」とA。
入ると、Aが、随分前にあげたゲームで遊んでいた。
「楽しい?」
「うん!めっちゃ楽しい!ありがとう!」
……
そうして、1年の歳月が流れた。
Kは、久方ぶりに動向を確かめるべく、Aの夫のツイートを見て驚きを隠せなかった。
そこに書いてあったのは、まず古い順から、夫が探偵を雇ったこと、次に探偵が手がかりを掴んだこと、最後にAが浮気をしているという証拠を掴んだ、という趣旨のツイートがされていた。
そこには、Kの名前と、探偵が撮ったと思われる、Kの家の窓越しにいるAの姿が写っていた。
「愛する妻が浮気をしていたとは……。とてもショックです。彼女にも考えはあったのかもしれない。でも私は、本気で彼女を愛していたから、たくさん贈り物をしたし、愛の言葉もたくさん……あれが全部嘘なんて……」というツイートと共に、Aの棚と思われるピンクの棚に、燦然と輝くたくさんの宝石の写真が掲載されていた。
……
Aの夫がどこかで漏らしたか依頼したのだろう。Kの家の窓に毎日石が投げつけられ、無言電話が毎晩のようにきた。
そのうちsmsで知らない番号から、罵倒のメッセージが、一日100件ほどKの携帯に届くようになった。そのメッセージには、Kの学生時代の写真が添えられていた。
瞬くまにそれらの情報はTwitter経由で匿名の掲示板にまとめられ、毎日のようにTwitterのトレンドにはKの名前が載っていた。名前とともに、全く真実とは異なるKについての悪い噂が、書かれていた。
……
Kは当然のごとく、ある日突然会社を辞めさせられた。Kは呆然と立ち尽くし、そして、とぼとぼと家路についた。Kは無力だった。本当に無力だった。家に帰ると、Aが首を吊って死んでいた。Kは、Aを縄から降ろすと、今度は台をぶら下がった縄の下に置きわ自分がその縄のなかに首を入れて、最後にスマートフォンを取り出して何かを打ち始めた……
……
不倫は罪でないため、捜査によって証拠が集められて、正確な情報で、当事者の環境を鑑みることや弁解をする裁判の場所は設けられることはない。
その代わり、正義の名の元に集結した人々が、(彼らが言う)倫理とやらを振りかざして不倫をした(と思われている)者をボコボコに殴り倒します。心も傷だらけにしますが、彼らは正義のためにこれを行ったのだから、社会は倫理を守ることができました。そういうことですね。(ただし、正義である根拠はインフルエンサーである、夫の寝言であるということだ。また、全員「匿名」というマスクを被っているので、顔も名前も性別も分からない。分かるのは、とてつもなく黒い加虐心のみ。不倫をした者は、自分の顔を知っている、そのような顔の見えない集団からKは暴力を受け、底知れぬ悪意によって心を滅多刺しにされた、そして、文字通り命を奪われた)
……
そうメモに書き終えると全文をコピーした。
首を縄にいれたKは、薄れる意識の中で微かな望みをかけてあるアプリを開いた。
chatgptという正しい判断をくだすことが多いと評判のAIに、バッシングすることは正しいことなのか、と聞いてみた。
答えが返ってきた。
「総括すると、バッシングは不道徳や行為への正当な怒りである。社会的な秩序、公平性、正義、倫理、信頼、一貫性など、社会的な安定と共感の基盤を守るための自然な反応です」