ライ麦畑で逃げますので悪しからず

猫と寝転ぶわ。昨日のこと忘れるからさ、今だけあるよ。

鬱を甘えと言い張る人は、恐れている。何を?

アリストテレスがいうように、人間はポリス的動物であるということは、アプリオリな本能であり(https://x.com/kozo_simadu/status/1702504585242476607?s=46&t=i1uJBdHHB0Mi41eGgL3wrA)人、3人、家族、村…国家となる。故に国家は人間の動物的な機能によって作られ、人間のために集団の倫理の研究として政治学を深め法を作る。

法を作ったのは、倫理に正当性を与えるためである。つまり、アリストテレスが言った「人間はポリス的動物である」というのは、究極的には倫理という判断基準による「善」を作ることで、コミュニティに寄与するものを歓迎し、コミュニティ壊すものを排除するということなのである。

よって、順序としては、コミュニティを作ることで生存の可能性を高めたいという本能があり、それがコミュニティを守るというためにはルールが必要となり、その正当性を担保するために法律として、また宗教の聖典として明文化することとなった。

が、これは、ほとんど同時の出来事であり、罰則の基準などは後としても、それが善であるか悪であるか、無実か罪に値するかというのは、文明の成立と同時である。
宗教は、こう言う。善きことをなせば、善きことが返ってくる。罪をなせば、地獄に落ちる(不利益を被る)。

これは、法とほとんど同じで、法であれば、罪をなせば、罰を受ける、ということだ。
これは、現在でも、どんな文明においても信仰されている。法律のある国家であれば、その根拠を問える限り問えば、自ずからこの結論に辿り着く。
罪をなせば、地獄に落ちる、ようなニュアンスは理解しやすいだろうが、それは逆の善をなせば、善きことが返ってくると同じことだ、ということなのだが、これは疑問符が浮かぶ人もいるだろうから例示してみせよう。
例えば、ある人が鬱病にかかったとしよう。鬱病にかかったのは「運が悪かったね」で済まされるかもしれない。

しかしこの場合でも、あなたが、善につとめてこなかったからだ、という人もいるかもしれない。
しかしこれが、もっと明らかになるのはその後だ。
運悪く鬱病にかかった人が何とか苦心して回復して立ち直れたら一般にこう賛美される。「よく頑張ったね。めげずに頑張ったのが実ったのね。」と

所謂「心」の努力を感動エピソードとして持ち上げられるのに対して、同じ鬱病でも立ち直れなかったという話になると「心の持ちようの問題、気持ちが甘えてるんだよ」とか、非難を受ける。私も実際「甘えだ」と非難されたことがある。
しかし、鬱病は決して心の問題などではなく、身体的な、問題で具体的に言うと脳の機関が異常な状態になっているということなのだ。
当然のことだが、心の病気と呼ばれるものは、足を骨折した、とか、怪我をした、とか、インフルサエンザに罹ったとか、そういう事象と何ら変わることの無いものだ。

そういうことに対して、例えば足を骨折して歩けなくなった人に対して
「お前の甘えのせいで、お前は足を折って歩けなくなったんだ。それは自己責任だ」と言う人がいるだろうか?
鬱の構造が、科学的に一般に知られていても、どうしてもそれを認めたくない、「鬱は甘え」と言い続けたい層がある。

彼らの心境とは?
すなわち、骨折という不条理な事故を「甘え」=「心の持ちよう」としたがるのはなぜか?端的に言って、彼らは怖いのである。
鬱病にかかるのは運が悪かったとして、干渉しようのなく、また目に見えない「心」の病気が続くということが運の問題としてでなく、コミュニティに悪を齎した罰であり即ち必然性があると認めているからなのだ。そうでなく、善をなしているのにも関わらず、罰が続くということがありえると「倫理」という「コミュニティに利益を齎せば利益が自らに返ってくることから、コミュニティに利益を齎すことが善いことだ」という原理が地盤から崩れてしまうからである。もし、彼らにその「善行は利益を齎す」という信仰がなければ、怖がる必要はないのであるから。

もっとも、初めに運悪く鬱病にかかるということに関しても、説明はなされている。
例えば日本では神々は決して倫理的ではなく、奔放に生きる存在として描かれている。そこに、運が悪いという不条理の必然性が書かれ、仏教によって善によるご利益が約束されるという仕組みだ。

またユダヤ教キリスト教では、もっとはっきりしていて、「ヨブ記」に全ての論理が描かれている。

ヨブ記は、旧約聖書の一部で、ヨブという正しい人が神による試練に耐え、信仰を守り続ける物語。

 

**あらすじ**:
- ヨブは幸福で正しい人であり、神に深い信仰を持っていた。
- 神はサタンにヨブを試練する許可を与え、ヨブに対する試練が始まる。
- ヨブは財産を失い、病気にかかり、家族も失うが、神への信仰を失わない。

 

- ヨブの友人たちは彼を励まそうとするが、ヨブは自分の苦しみを語り、神に問いかける。
- 最終的に神はヨブに答え、彼の信仰を称賛し、彼の生活を元より大きく回復させる。

**教訓**:
- ヨブ記は人生の苦難と信仰の問題を探求し、神への信仰を失わないことの重要性を示している。

- 信仰を持つことは、苦難や試練に耐える力を与え、最終的に祝福をもたらすことができると教えています。
- 同時に、友人たちの対話は神の計画や人間の限界についての深い哲学的な議論を提供しており、神の不可解な道を受け入れることの難しさを示唆しています

 

神は不条理であり、人間を悪運に陥れて信仰を試す。
しかし、信じ続けることで、神はもとの生活以上のものを彼に齎す。

以上。