ライ麦畑で逃げますので悪しからず

猫と寝転ぶわ。昨日のこと忘れるからさ、今だけあるよ。

科学的妥当性を信じてたら痛かった

科学的根拠への疑い。世の中には色んな論説が溢れている。どの論説も「私の論は科学的な根拠と正確な理論に基づき導かれたものだ」と言う。しかし、対して反対意見を言う方でも同じことを言っている。じゃあどちらが正しいのですか、と、決めるのは何だ。現実か?宇宙船の写真が撮れたら、宇宙人はいる、正しいか?そうでなく、たくさんの人がその宇宙船を見たんだ。正しいか?本当に?

どう思いますか。

議論は、科学的妥当性を主張する。この文章だってそう。何かを説明しようとするとき、というのは、相手がそれについてあまり知らないところに、納得してもらおうとする限り、根拠と理論の妥当性を求めることになる。

昨日、野球選手のYouTubeを見ていた。僕は野球をしていたことがあるから、彼の説明がとても分かりやすくて、緻密に構築された理論に基づいた説明であると、感動した。そして、彼がその理論に基づき、レジェンドと呼ばれるほどの結果を残したということは、やはり、プロの世界で勝ち残るということは、科学的に考えるということ、野球であれば、身体の構造や、骨の間接の動き方、そういったものの観察眼、そして帰納的に導かれる最適解、それを活かすということなのだと、僕は正直なところ「ときめいた」のだ。

彼の説明の後でひとしきり他のレジェンドと呼ばれる選手たちでさえも、彼の厳密で緻密な理論に感心していたが、ある選手がこう言った。

「同じチームで年もそんなに離れてなくてどうして僕に教えて下さらなかったんですか。いつも色んなことお話してくださったのに、そういう本当に大切な科学的は理論なんて一回もお聞きしたことないですよ」

もっともだ。

彼はこう答えた。

「いや、まあね。実は、これは、コーチになってからプロの選手を指導する立場になってから、自分が教えるべきと思った時に初めて考えたことなんだ。現役だった当時、そんなこと考えてないさ。ただね、現役のときは試行錯誤を繰り返してる中で、ああこうやって動けばいいんだって体で覚えたんだよ。それで現役のときに自分が成し遂げたことを、後輩の選手たちに活かしてあげられるか、って考えた時に、実際、自分がどういう動き方をしていたかってことを理論的に構築する必要性に迫られたわけよ。だから、むろんお前に悪気があったとかでは決してないんだよ。」

 


野球は他のスポーツと際立って異なる点として、能力を発揮する時間が極限まで短いことだ。例えば、バッティングであれば、ただ振って当てるということを言うのでない。150キロの速球が約20mの距離であの小さな球を見つけて、さらに、その球が変化するのかしないのか、また、その球の上の方を叩くのか、下から叩くのか、内側を叩くのか、外側を叩くのか、また下半身から上半身へ連動していく流れを変えて、この球はフェアゾーンに打つか、ラインを超えてファールゾーンに打つのか、また真正面に打ち返すのか、右側に打ち返すのか、左側に引っ張り込むのか、

諸々そういった全ての判断を、20mを150キロの速球なら、単純計算で約0.5秒以内に全ての判断と、行動を完遂しなければならないのだ。

それは、走ることにも、投げることにも、野球においてはほとんどの場面、ほとんどの役割の人間にそれが求められる。

プロで優秀と言われる選手は、とにかく、その0.5秒(キャッチャーであると、0.1-0.2秒の判断も必要)という極限に限られた時間で、どれだけのパフォーマンスをするか、ということになるから、はっきりいって、人間にとって明らかに不可能に近いのである。

しかし、する。できる。なぜか?彼らは考えないのである。考えないでできるように、練習するのである。考えて判断、それは実践ではあまりにも遅い。

条件反射。大きな音に驚く。熱いものに触れて手を引く。漫才を見て吹き出す。

そのような、もう、どうしようも無い反応となるまで反復練習をして、考えることができないところまで条件反射としての運動になった時、それが能力として初めて生かされる。

 


だから、彼の発言は本当にもっともだった。

彼は確かにタイトルをとった。だから優秀だ、と言われ、コーチとして招聘された。

けど、彼の言うとおり、理論などではないのである。というか考えてたら、野球の運動はできないのだ。もちろん、サインなどは状況の見極めなので、運動というよりは、停止している時間に行われる。野球は止まっている時間が異常に長いのに、評価されるのは一瞬の運動である。特異なスポーツだと思う。

(ただし例外として野球には『ヤマを張る』ということで記録を残す選手がいる。彼らは、データを収集して、確率の高いところを見極めそこにベットする。ただしどうやっても100パーセントはないので、選択肢は絞れても、賭けが当たらなかった時の対処法は、というか、外れた!と思ってからでは遅いので、外れるということも含めて考えている。ヤマを張る選手は必要となる練習が比較的少なくなるものの、それでもやはり必要であることに変わりは無い)

 


現役時代の彼が理論をもっていなかったことは、彼の運動の根拠はどこにあったかというところになる。試しにこう動いてみる、上手くいった。上手くいかなかった。こういう試行錯誤は残念なことにあまりできない。どんなに、本来優れていても、周りの状況に結果は果てしなく左右されてしまう。例えば、投手だったら、キャッチャーがサインを出すから、キャッチャーの能力によって、投手の結果は全く変わってしまうように。

ようは、自分が正しいことの根拠はどこにも無く、基本的に優れた結果を残したあとでなければ、自分のデータを解析するほどのチャンスはなく、1度のチャンスをものにすることが全てだ。ということは、彼が根拠にしているのは、「俺はこうすれば、上手くできるに違いない」という直観的な確信にしかない。

いきなり話は変わるけど、卒論などの論文を書いたことのある人ならわかると思うが、あれは基本的に、ある仮定を立てて、それを証明するというものが多いと思う。僕の個人的な印象では、その仮定は、何か根拠があっての事というより、こんなことが証明できるんでは無いだろうか、という直観的なものであると思う。実際、物理や数学などでは多くの証明されていないままの仮説があるだろう。あれらは、過去の学者たちの天啓的な閃なのではないかという気がする。ここが、今回の話で肝なのだ。

で、証明に移る。統計的なものであれば、有意性という値を用いて、この値が一定の数値を超えたら、確か『らしい』ということで、承認される。数学は、そもそも、その考え方を作ったのがそもそも人間なので、証明するということが、何を意味しているのか、あまりハッキリと僕には言えない。物理学や化学における証明は観測によって確かだということがあると思う(例えば、E=mc^2、質量はエネルギーになる。原子力の観測)。

一方、理論的な証明となると、僕にはどうも、仮説に向かって走り出す論理というのは、必ず視野が狭くなると感じる。

例えば、ひとつの例を出すと

人類学の研究であったが、女性が子どもを産み育てるということについての研究で、南アメリカ大陸で他の文明と関わりを持つことなく、現代まで続いた民族が発見されて、彼らを観察したところ、ある女性が子どもを産むと、その集落の女性が全員でその子どもを育てていたという。また、幼い女の子は、物心ついたころから、子どもを育てるための訓練を大人の女性に指導されるということであった。

この観測から、研究では、現代女性は子どもを育てるための環境になく過度に疲弊してしまうという可能性が示唆された、と。

 


僕はこの研究の形を見ると、仮説という概念の危うさを感じた。この研究が間違っているとか、正しいとかでなく、この結論に辿り着くように、研究チームが動き、観測しているように思われたからだ。視野が狭まっていると言ったが、例えば、環境のことを考慮しているか、と言われたら、どうだろうか?南アメリカ大陸の森林の中に住んでいる文明と、極東の海に面した文明の人間社会を紐付けるというのは些か不思議ではないか?とか、原始のままに残っている、と書かれていたが、その根拠は?どんなに他の文明と関わりがなくとも、人類が誕生してから、何万年もの間、社会的に何も変貌しなかったと考えることは、不思議と感じないのか?……という、重箱の隅をつつくようだが、要するに難癖つけようと思えば言いようはいくらでもあると言いたい。

 


ね、根拠も論理もそんなに確かじゃないって気がしてこないか?

根拠と論理……って科学的な妥当性を担保している根源的な概念だ。

と、私は科学的という言葉に疑義を抱いている。

 


一方、科学的でないとされる、信仰と呼ばれるものは、多くの人がそれを極めようとすると、いわゆる悟りとか聖者という言葉がうまれてくる。つまり、真理に辿り着いた者、たち。

長い時を経て、科学的でない真理が悟りによって積み重ねられ、ある方向を向いていく。

すると、なぜか、全く出自を別に持つ宗教同士が同じ方向に真理を見出すということが散見されるのだ。

例えば、真言密教の考え方で、『空』という概念と『不空』という概念がある。

 


密教においては、全てに実体はなく、宇宙は空であり、私も空であり、空であることが真理であり、真理とは大日如来(最上位の仏)のことである。

人間は宇宙の一部であるから、仏である。しかし、煩悩の雲に自らが仏であることを目隠しされているために輪廻を繰り返している。

 


真言密教において、最も重要な経典のひとつに理趣経、というのがある。理趣経において語られる「不空」=「ないのではない」= 「大日如来(宇宙=真実)エネルギーに満ちている」かつ「空」が宇宙であるという教えだ。

このエネルギーは智慧のエネルギーであり、「智慧」とは不空成就如来金剛業菩薩が授ける「物事をありのままに見て真実を認識する能力」である。

 


一方、宗教ではないが、哲学で、実存主義の有名な格言に「実存は本質に先立つ」というものがある。サルトルの言葉で、人間の存在には本質がないとするものである。言ってみれば、キリスト教の解釈の1つである人間には生まれた時から意味がある、に真っ向から対立した発言とも思う。非常に空と不空の概念に似たものを感じる。カミュのシーシュポスの神話というのは、不条理を不条理として不条理であるままに遂行するという、これもまた。

同じく哲学で、フッサール現象学から、また、こちらはそこまで詳しく言えないのだが、現代物理学で仏教に接近している、量子力学における状態の重ね合わせという概念。これに関して、専門外が言うとバカみたいだから(いまさら?)これ以上言わないけど。

 


ユダヤ教もそうでないか?キリスト教も。

ヨブ記など、僕は最後に神が現れ奪ったものを倍にして返すというのは、付け足されたものじゃないかと疑っても疑っても足りないほどなのだが、日本神話でも良いが、神は不条理だ。基本的に、人間側からすると、報ってくれる存在として描かれない(が、命じる)。

キリスト教では、キリストに"Eli, Eli, Lema Sabachthani?"「神よ、何ゆえに我を見捨てたもうや」言わしめるものである。これに関して、神学は解釈を様々にしてきたのは知っているが、まっさらな気持ちでこれを読んだらどうだろうか。彼の言葉は、まさに、神は自らに最も尽くした存在にさえ鞭を打つ、というように感じる。

仏教とキリスト教が全く出自を異なるところにするに関わらず、なぜか、ここで、合致してしまう。

 


僕は

15年ほど前、高校生のころ、鶴見俊輔の声を聞いた。言葉を読んだ。政治的な発言に関して、僕は本当にどうしようもなく判断ができなかったから、僕が彼を追い続けたのはそのためでない。彼の言葉と声に感銘を受けたからだ。それは、論理でない。ただ直感のままに。

偶然かもしれないが、同時期に白隠について、つまり禅における、真理や悟りのあり方に、非常な興味を持っていて、白隠の描いたものを追っていた。

そのためか、鶴見俊輔白隠を重ねることがあった。

鶴見俊輔が言った。最も印象的だった言葉。

「私は戦争が嫌だ。それはそれ以上でもそれ以下でもない。私は戦争が嫌なのだ」

正確では無いかもしれないが、ニュアンスとしてはほとんど合っているはず。

根拠も論理もすっ飛ばして、彼はこう言ってのけた。今日、それを思い出した。