ライ麦畑で逃げますので悪しからず

猫と寝転ぶわ。昨日のこと忘れるからさ、今だけあるよ。

全人類の信仰する宗教の教祖は必ず女性である

古代、コミュニティの誕生とともに来世利益を約束する宗教が同時に発生したことは述べた。

 

『宗教ってビッグバンじゃんって話と知性が信仰を愛する意味』

(https://monosun.hatenadiary.jp/entry/2023/07/14/041313)

 

来世利益、と言うと、よく考えると語弊があるが、もっと分かりやすく言うと、身体と魂がある、という宗教のことをさす。身体滅びようと、魂があるので、彼らのために墓をたてた。身体しか存在しないと考えているのであれば、墓など必要ない。

弥生時代の日本には、アミニズムと祖霊信仰があったと言われている。アミニズムは少なくとも人工的に作られたものでないあらゆるものに対して精霊を見出すということ。祖霊信仰は、墓。

と、ここまで纏めたところで、私が今日議論したいのは、近親相姦がなぜタブーなのか、ということだ。答えのひとつとして、生命が遺伝の多様化を求めていることがある、第2に倫理・宗教的観念からというもの。第3に、家庭内の不調和を産むというものが考えられる。

私はこれらは全て、来世利益の宗教のルールのうちに含まれていると考える。つまり、古代から、特定の小規模でしか有り得ない集団を除いて、大きなコミュニティにおいては、この宗教の規範に依拠するものだ。また、ここでも前回の記事と同じことが言えると思うのだが、近親相姦の禁止と宗教の成立は同時の出来事ではないだろうか。なぜなら、近親相姦の禁止というルールは法からくるものであり、法というのは宗教からくるものであるし、コミュニティが発生しなければそもそも、宗教は必要とされないからである(同記事参照)。

ところで、私が、注目するのは、遺伝情報に関する研究である。

例えば、不感症の女性らに対し、男性の汗の匂いを何度か、何日かごとかに嗅がせたところ、不感症が治ったという研究がある。

また、走った後の数人の男性の汗に対して女性が匂いをかいで、いい匂い、よくない匂い、段階的に採点させたところ、遺伝的に差異の大きいほど、女性はその男性の汗の匂いに対していい匂いと感じる場合が多かったとのことである。

ここで、私がふと、感じたのは、なぜ、これらの研究は男性に対してなされないのか、ということである。

汗に含まれるフェロモンのことを、遺伝的フェロモンといい、それは男性、女性、どちらにも含まれる。では、なぜ、研究において、このような偏りが生まれるのか?

それには2つの要因が考えられる。

 


1. 男性は時折、異なるパートナーと関係を持って遺伝的多様性を求める傾向があると言われている。それに対して、女性は最良の遺伝子を選ぶ必要がある。

このため、女性は男性の遺伝的フェロモンに注目することが重要とされている。男性のフェロモンは女性が適切な遺伝子情報を選ぶのに役立つかもしれないため。

 


2. 生理的差異: 一般的に、女性は男性よりも嗅覚が鋭敏で、特定のフェロモンや香りをより感知しやすいとされている。この生理的な差異に基づいて、女性が男性の汗の匂いを評価するのが適しているとされている。

 


まとめると、男性は一人の女性に対して欲情するというより、自分の遺伝子を後世に残すことに重点を置くために、多数の女性へと、欲情する。また、男性は、繁殖行為に女性と違って、出産という自らの生命のリスクが伴わないために、女性の遺伝的フェロモンを嗅ぎ分けるための嗅覚が発達しておらず、すると、他の要因に魅力を見出す。実際的に考えてみると、女性は、自らを魅力的に見せるために、香水、もあるが、首から上に装飾を過剰に施す。このことから、男性が女性に対して、欲情する要因として、首から上に、遺伝情報の異質さを曖昧ながら見出すのだろう。

女性の場合、繁殖行為の結果として、出産という命のリスクがあるために、相手にする男性を慎重に選ぶ必要があり、そのために、最も遺伝情報を伝える手段となる嗅覚を用いて、遺伝的フェロモンを判別する必要がある。(ただし、男性の肉体的な強さ、頭脳の賢さ、権力・財力など、他にも判別する術はある。ただ、ここで留意しなければならないのは、宗教またコミュニティまた社会集団が生まれた段階においては、男女の役割は性差によって明確に分けられていたことに留意する必要があるだろう。この時、果たして、女性は男性の能力について、その目で見ることができただろうか。肉体に劣る男性であれども、知に長けており、集団の指揮をとっていた、ということもありうるし、その逆もある。そして、権力や財力というのが生まれたのは、弥生時代、稲作が入ってきて、農業を生業とし、定住するようになってからのことである)

 


以上のことから、私は次のように考えた。

男性は極端に言えば、遺伝情報に無頓着である。魅力的に感じれば、一辺倒になることはあれど、生殖行為は、ただ一人に限ることにメリットはない。(生命体としての極論を言えば)

対して、女性は嗅覚から得られた男性遺伝情報を非常に大事にして、男性を許可する。最も遺伝的発達に好ましい遺伝的フェロモンを持つ男性を許可する。

したがって、近親相姦のタブー、ということに関して考えると、これは、宗教の誕生と同時代の発生とすれば、この規範を持ち込んだのは女性である。なぜならば、女性は正確に慎重に遺伝情報を嗅覚によって手に取り、コミュニティにおいて最適な遺伝子を取り入れることに、能力が特化しているからであり、近親相姦は、動物的な女性の原初の強力な能力によって、タブーとしなければならないからである。

とすると、宗教というのは、女性が作り出したものなのでは無いか?ということが浮かぶ。

そうだ。動物も、同じくして、近親相姦のタブーを雌が持っているのだろうが、宗教という枠組みを作ったのは、言語を持つ人間だけなのである。よって、人類に共通する宗教のメシアは、女性であったのだ。

そのとき、男性は狩りをしていた。獲物を狩る計略は立て、理性を磨いた。知性を研ぎ澄まし、筋肉をつけた。

原初にして、最も根源的なタブーということを考えると、動物に果てしなく近いものだと考えられる。動物は、不倫もタブーではないし、同性愛もタブーでは無い。それらは宗教があとからつけたしたものだ。

 初めにあったタブーとは、近親相姦なのだ。そして、タブーとは、宗教の始まりなのであり、それは女性によって、発見されたのである。

そして、女性は、女性同士で助け合い(例えば、原初の女性は、子供の頃から、赤ん坊の育て方を学び、女性が赤ん坊を産むと、そのコミュニティの女性全員の共有する存在として育てられた)、非常に社会的であった……ということを考えると、また妥当性が高まるだろう。

と、私は考える。

 

蛇足だが、

成人向けコンテンツを見ると、男性向けには多くの近親相姦があけすけに見られる。フロイトラカン精神分析は、男を見て、母の代償を求め彷徨う存在という。

女性むけのそれは公の場で多く語られることはあまり見られない。が、実際はある。

 

1.紫式部源氏物語

光源氏の母の代償探しは、男が誰しも持つもので、近親相姦とも言えない気がするな。面白いから挙げた。

光源氏の産みの母である桐壺更衣に容貌が似ているとされた、彼より6歳年上の藤壺は「永遠の女性」として描かれ、また、さらに藤壺の姪である8歳年下の紫の上も、理想の女性として育てられる。しかし、光源氏が正妻としたのは、永遠の憧れの藤壺の姪である女三宮

結局、光源氏が見ていたのは、母の紫(ゆかり)だった。

フロイトラカン精神分析は、光源氏を見て、母の代償を求め彷徨う存在というだろうね。

 

紫=ゆかりについて: 紫根染めによる紫色の布や紙に他のものを重ねると、ほんのり色移りする。近くにあるものを染めることから、紫色は“ゆかりの色”とも呼ばれていたようで、これが「紫=ゆかり」という読み方の由来になった。

 

2.倉橋由美子の『聖少女』

エレクトラ・コンプレックス。エディプスコンプレックスの女児の場合を言い、女児が父親に対して強い独占欲的な愛情を抱き、母親に対して強い対抗意識を燃やす状態を指す。ユングが提唱した概念で、ギリシア悲劇エレクトラ』より。

父親から娘への性的愛情は、これはタブーの最たるものであり、性暴力となる。が、娘が成人して、それを承認しての、欲望だとしたら、どうなるのだろう。と、この小説ではまさにそのような設定で、聖少女というのは、「ああ、パパの柱を甘い蜜でとかしてあげられる花になりたい」と言っている実の娘、未紀は「パパ」と肉体関係を持つことによって、彼女の「パパ」にとって、【永遠に】「少女」であるという意味であろう。実年齢は、22歳。

思い出されるのは、澁澤龍彦の「あなたはどうして子供をつくらないのですか」という質問に対する回答、「かりに私たち夫婦のあいだに、男の子が……(中略)……また逆に、私たち夫婦のあいだに、女の子が生まれたと仮定しましょう。そうした場合、私はほとんど確実に、妻をほっぽらかして、妻よりも若い娘の方に、自分の愛情が移ってゆくだろうと断言することができます。いや、笑いごとではありません。もし事情が許せば、私は娘と近親相姦の罪を犯すことにもなりかねないのです。」

また、「私にとって、娘という存在は、近親相姦の対象にするためにのみ存在価値を有するものであって、近親相姦の禁じられている現実の世界では、娘をもつことの意味はまったくないのである。」とも。

 

また、未紀の(自称)婚約者であるKとその姉Lも姉弟でありながら、関係を持つ。

 

つまり、2つの近親相姦がえがかれている。

父と娘、姉と弟。

 

倉橋由美子は、この小説を最後の少女小説と位置づけ、自身が近親相姦を小説に書く理由について、「真実を突きつけてショック療法を行うというような意図は全くない」と断った上で、「『近親相姦をいかにして聖化するか』という課題に魅力を感じるから」と述べている。

 

3.矢川澄子『「父の娘」たち―森茉莉アナイス・ニン

森茉莉の『甘い蜜の部屋』では、娘は父の膝枕で、父は娘を溺愛する。

アナイス・ニンの『日記』は、一言で言えば「男性遍歴の記録」だ。父親に棄てられたニンは、父の代わりを探すかのように男性遍歴を続ける。ニンは二十歳の時、ヒュー・ガイラーという銀行家と結婚しているが、その結婚関係を維持したまま、五十二歳の時、ルパート・ポールという遥かに年下の青年とも結婚している。夫だけでも二人いた。奔放な男性遍歴を書いたもの。

矢川澄子曰く「わたしが活字の上で見出した、数少ないほんものの少女たちの双璧である、と述べている。ひと筋縄ではいかない、無垢でみだらな「少女」という孤高の獣。」

また、兄妹間における愛についても、矢川澄子は、こう書いている。

「相思相愛の兄妹というテーマは、各種の男女の愛の形式の中でも最も純粋で、かつまた宿命的に悲劇性を帯びたものとして私の心を捉えてやまないものの一つである。兄妹といったが、場合によっては姉弟でも起こりうるだろうし、何なら男女二卵性の双生児だってよいとしている。また、兄弟姉妹の間に真に緊密な一体感が生まれるためには、互いに物心が付く前から相手が存在していた方がよく、したがって年の差は大きすぎない方がよい。」

父と妹、あるいは兄と妹という関係における性愛は、宿命的な悲劇性、まるで神話のような悲劇である。「甘い蜜」の関係においてのみ開放される、無垢であり純粋でありながら淫らな少女。

父(パパ。)もしくは兄(おにいちゃん。)との結合は超時間的で、少女性を永遠なものにする。これは「プラトニック」な少女性を担保するものであり、言わば、尾崎翠の「少女」。小学生の読む少女マンガのような、天真爛漫な少女ではなく、憂いを帯びた儚い少女性。

矢川澄子澁澤龍彦を「おにいちゃん」と呼んだのも、兄妹=永遠の少年+不滅の少女という永遠に無垢で淫らな関係を志向したからであろう。

矢川澄子は、自分の内面がどろどろしてグロテスクなものであると認識していたから。

だから、永遠の少年と不滅の少女の聖なる関係を求めた。

ちなみに、永遠の少年というのは、ユング心理学において使われる言葉を澁澤龍彦が用いたもので、意味としては

「永遠の少年は、もともとは死と再生をつかさどる児童神を意味します。瑞々しい身体と穢れのない精神を持っていて、その若々しいエネルギーと形態を永遠に保持している元型となります。」

自らを遺棄された孤児、無力にして超越的な存在として特別視する者。

澁澤龍彦は、自分をそのように自認していたのだろう。

 

 

川上弘美『水声』

姉と弟の近親相姦を扱った作品。1990年頃、夏、姉の都(みやこ)は28歳、ただひとりの弟の陵(りょう)はひとつ違い。ふたりだけのひみつ。

都は現世の中心。それに対して陵は、訓読みで「みささぎ」、まさに死後の世界の象徴。

両親は兄妹(ただし異母)。「ママ」は男性関係が奔放で、日本神話的な感じ。ひみつに対する、奔放さ。

2代にわたる兄妹間の「水声」……性的な液体のこと。

2013年.都も陵も50代半ば。「ママ」は死んだ。「一緒に眠るって、へんじゃないのかしら。わたしたち、きょうだいだし」。

文庫版解説を執筆した江國香織は執筆の際に浮かんだ「一般的」という言葉について、そもそも「一般的」とはどういうことなのかと考え込んでしまったと述べている。

 

以上

このような感じで、女性作家による、肉親との近親相姦を描いた小説を見てみた。なんとなく、『聖少女』『甘い蜜の部屋』『日記』『水声』どれに対しても言えることに、この小説家たちは、現実に有り得ないことを、いや、有り得ないからこそ、描いている、という感じがする。タブーだから、現実には、ない。

澁澤龍彦矢川澄子との関係において、矢川澄子が、「おにいちゃん」と彼を呼んだのは、矢川の視線はファンタジーの中にあったからでは無いだろうか。それが読み取れる、矢川澄子のその姿は、『ユリイカ2002年10月増刊号 総特集=矢川澄子 不滅の少女』 に寄せた50名の著者による、矢川澄子像に現れている。

「どろどろぐちゃぐちゃしたものが嫌い」(矢川)

「どろどろしたもの」は矢川の内面にあった。たとえば同人誌時代からの親友だった多田智満子への怨望である。
本書に収められた多田の談話によると、多田は癌で入院中に矢川の見舞いを受けたが、まもなく矢川から「常に泰然自若としているあなたが、病気になってどうしているのかと会いに行ったら、死ぬ時節には死ぬがよろしく候などと穏やかに受容して鷹揚に構えている、あなたはいつもそうで、わたしはずっとあてられっぱなしだった」(p.111)

だからこそ、フィクションの中に生き、結婚生活のなかに、小説の中で物語或いは神話でしか展開され得ない、神聖な不滅の少女の長時間的存在を持ち込んでしまった。そして、澁澤龍彦はそれに応えた。

 

ということ。

小説としての、女による近親相姦は「永遠の無垢な少女性を得たいが、現実世界にはそんなものは絶対にありえない」との思いから、描かれている。

 

タブーに触れるということは、バタイユを参照すると分かるように、禁忌へ触れること=侵犯=祝祭である。ありあまる、エロティシズムへのエネルギーが解放され、消尽(無駄、非生産的な行為)する。祝祭でとにかく騒ぎ踊りまくり後のことなど考えず(非-知)、エネルギーを使い果たすことで、死へと向かっていくことの快感。

 

女性は動物的な禁忌を見出すことができた。

女性はその禁忌を言葉の枠組みに入れ宗教を作り出した。

男性は、十全に禁忌をタブーを味わうことが出来ないが、女性は、タブーを味わうことができ、それを侵犯することで、まさに死に至らんとする快楽があることを知っている。禁忌は、動物でも作ることができるが、侵犯は聖なる存在、すなわち人間にしか不可能である。

男性は、侵犯の快楽に対して、恐らく、女性の1割ほどしか、認識できないだろう。そして、その侵犯が、死に至る快楽という腹上死に繋がることをよく分かっていない。その1割の足りない認識が、程よく、男性には心地いい。

女性は、そのような男性の認識に対して、嫌悪感を感じる。なぜなら、侵犯とは、聖なるものなのだから。そう、原初の宗教が、現世利益のものでなく、来世利益のものであったのは、侵犯が死に至る快楽として天に昇ることのできる行為であることを、創造主である、女性が知っていたからである。

 

P.S.

確かに卑弥呼は、弥生時代の人間だが、女王であったし、鬼道もしくは神道のシャーマン、霊媒社であった。