ライ麦畑で逃げますので悪しからず

猫と寝転ぶわ。昨日のこと忘れるからさ、今だけあるよ。

セックス≠性的愛情

性的な側面を持たない≒性行為を志向しない、性的指向にある身体的性別を持つ対象との関係における深い愛情が「性的であること」はあるのか?

(簡単に言うと、「セックスはしたいと思わないけど、好きな性の体を持ったひとを深く愛することって、その人の性別との関係はあるの?」ってこと。)

特に、性行為(体の関係)を求めないことと、深く性的な愛情を抱くことは矛盾しないの、ということが疑問。

まともにぶつかっても難しそうな問題なので、仮に、極端な関係の例を挙げてみる。

①と②、二人の関係。

身体的属性:男性
性自認:女性
性的指向:女性

身体的属性:女性
性自認:女性
性的指向:男性

この2人のカップルは成立しうる。が、困難な事として、②の性的指向が男性であるということは、①の身体的特徴が男性であることと合致するものの、①の性自認が女性であるということと矛盾が生じてしまうことが問題として上がる。
端的に、②が①に対して「私は男性が好きだ」と言うことは、①の「私は女性である」という認識と矛盾してしまう。
この関係を成り立たせるためには、①が②に対して「あなたは男性と女性、どちらが好きなのですか」と、問うた時、②は①に対して、「私はあなたが好きだ」という他ない。が、これは、①の問に対しては不十分な表現となる。「私は女性が好きだ」と言えば、②の性的指向と異なる発言をすることになる。
すなわち、②が正直に「私は男性が好きだ」と言っても①を傷つけることになるし、②が「私は女性が好きだ」と言ったら、②が自分自身を偽ることとなる。どちらにせよ、①②いずれかのアイデンティティに亀裂が入る。
ここでよく考えると、そもそも、身体的属性と性自認が異なる①は、言わずもがなではあるが、関係性以前に自己矛盾を抱えている。すると、では、①と誠実に関係を築くことのできる存在は、どんな人間であろうか。
と、考えた時に、判明したことが、「性的指向」という概念が指し示すのが、精神的なものか、身体的なものか、という疑問である。これは、次のように簡単に言い換えられる。
好きな性別(性的指向)とは、心の性(性自認)のことを指すのか、それとも体の性(身体的属性)を指すのか、ということだ。
前述の、①と②の関係においては、私は性的指向の指すものを身体的属性にのみ、限定してしまっていた。
そこで、そうではなく、性的指向が指すものを、性自認における心の性と考えたら、どうであろうか。

前回と同じことをこの条件で言ってみる。
②「私は心が男性の人が好きだ」……とまあ支離滅裂である。①は体が男で心が女だから。

では、同様の条件(性的指向性自認のことを指す、つまり、心の性に対するものとして考える)で、①と関係性が誠実に保てるような人物を考えてみよう。③とする。

と考えたところで、止まる。なぜなら、①の性的指向についても、同じくしてその条件下で考えることになるとするということは、これは、同様の状況として扱えなくなるということだから。ということで、便宜的に、①の性的指向は身体的な性別について指すものとする。

もう一度整理しよう。

身体的属性:男性
性自認:女性
性的指向:女性(体=身体的属性が)
↕️

身体的属性:女性
性自認:どちらでもよい
性的指向:女性(心=性自認が)

①と③の関係性は、誠実に保たれることが容易に想像できる。
しかしここで注目したいのは、「性自認:どちらでもよい」というところである。どちらでもよい、ということは、不明でよい、ということだ。①に合わせた③を考えた際に現れた。
では、逆に、①を③に合わせたとしたらどうなるだろう。仮に④とする。


身体的属性:女性
性自認:不明
性的指向:女性(心=性自認が)
↕️

身体的属性:どちらでもよい(不明)
性自認:女性
性的指向:女性(体=身体的属性が)

新たな存在④。③に求められる条件を備えた④。①と③の関係性が十全に保たれることは確認した。では、④に求められる条件を備えた人物⑤を考えてみる。


身体的属性:不明
性自認:女性
性的指向:女性(体=身体的属性が)
↕️

身体的属性:女性
性自認:不明
性的指向:女性(心=性自認が)

この、④と⑤の関係性が十全に保たれるセックスとジェンダーに着目すると、以下の結論がでる。
性的指向は、体について、と、心について、の2つの種類に基本的には分けられる(もっとも、例外はある、例えば、身体的には〜で、精神的には〜と)。
そして、性的指向によって、関係性の保証となる、体か心が限定されるということだ。そして、限定されなかった方は、どちらでもよい、となる(前述の通り例外はあるが、傾向として、性的指向の関心が体と心のどちらにもあれど、どちらを重要とするか、ということを考えれば、それほど的外れではないはず)。

一番初めの議題に戻ろう。
性行為を志向しないが性的指向の身体的属性を持つ対象と関係における深い愛情が「身体的」であることの必然性はあるのか?
この文章を今までの議論によって、解体しよう。
まず「性行為を志向しない性的指向の身体的属性を持つ対象」という文には、不完全なところがある。つまり、今まで散々考えてきたように、「性的指向」は「身体的属性=体」のみに向くものではない。「性的指向」は「性自認=心」へと向かうことがある。だから、正確に記述すると、この部分は「性的指向の身体的属性或いは性自認を持つ対象」となるのである。(例1:好きな人は体が男の人。心はどちらでもいい。例2:好きな人は心が女の人。心はどちらでもよい。等。)

ここで、少し立ち止まり、「性行為」について考えると、論文「https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsyap/30/1/30_67/_pdf」にあるように、男性の性行為が能動的で、パートナーに対する心理的な側面(独占欲、愛情表現)がある一方で、女性と有意に異なる動機として身体的な「性的快楽」を挙げるのに対して、女性において性行為は受動的で、パートナーとの心理的な「情緒的な関係性」を動機づけとしている。
これを見ると、男性は性行為は相手の体、に対して向いているのに対して、女性の性行為は心に対して向いているように、見える。
ただし、これは、確率論的であり、厳密なものとは言えない。
しかし、ここから導き出せるものとして、性交においては、身体的快楽と心理的充足のふたつの面があることがみいだせる。

先述の通り、
性的指向が、身体的属性(体)と性自認(心)に関心を向けるということ、このことと、
性交においても、身体的快楽(体)と心理的充足(心)に関心を向けるということ
を合わせると、
「性行為を志向しない、性的指向の身体的属性或いは性自認を持つ対象」という一文には
性行為〈体or心〉また、パートナーとの関係性ということが抜けているということを無視してしまっているから、以下のように改善できる。
「パートナーとの身体的快楽或いは心理的充足の手段を性行為に求めないで〜」となる。

さて、やっと、全部を眺める準備ができた。
完成した適切な問いは以下のようになる。

「パートナーとの身体的快楽或いは心理的充足の手段を性行為に求めないで、性的指向の身体的属性或いは性自認を持つ対象との関係における深い愛情が「性的であること」はあるのか?」
硬いな、ほぐしてみよう。
「その方とはセックスはしないのです。その方はわたしの好む性別です。心も体も好きな性別です。でもセックスはしなくていい。私はその方のその(男or女)性としての魅力を深く愛しています。これって矛盾していますか?」
「お答えします。ええ。全く、それは矛盾していません。あなたは、その方を本当に(男or女)性として魅力的に感じておられる。あなたのセックスに対する認識は、体の快楽や心の充足にあったり、その他の認識も有り得ますね。行為としては、身体的なものでしょう、ここは大事なところです。そして、その方を性的に好きということは、何も身体的なことばかりを指すのでは無いのです。ひとの性的指向というのは、心と体どちらに関心を強く向けるかということがあるのですよ。あなたが心に性的な魅力を感じているということもありますね。その場合、愛の表現がセックスという身体的接触によるものである必要はないということです。その方の体や心が男性であれ女性であれ、深い愛情で繋がっているということは、確かに性的な愛情に違いないのです。そうして、その表現方法がセックスという手段によらなかったというわけなんです。あなたのその方に対する性的な愛情ということ、その感情は大切にするべきものです。きっとね。」